
「5年間、一緒に暮らした人が、誰なのか分からなくなったんです──」
1991年5月、東京都世田谷区の病院で1人の男性が息を引き取った。名は「山森将智家」。京都生まれ、東大医学部卒の心臓外科医──そんな立派な肩書を持つ彼を看取った内縁の妻は、深い悲しみに暮れていた。
だが、死後に明らかになったのは、戸籍も、卒業証書も、職員証も、すべてが偽造だったという衝撃の事実。そして新聞に載ったひとつの記事が、20年間行方不明だった「もう一人の妻」を動かすことになる。
「夫はだれだった」──。
この言葉が、やがて一人の男の“偽りの人生”を白日のもとに晒してゆく。
1991年に死亡した「山森将智家(やまもり・まさちか)」という男。
彼は生前、自らを「京都出身の心臓外科医」と語っていたが、その正体はすべて偽りだった。
死後に新聞記事をきっかけとして“もう一人の妻”が名乗り出たことで、彼の本名・出生・二重生活・偽造の経緯など、驚くべき事実が明らかになる。
この記事では、確定情報に基づき、事件の全貌をわかりやすく解説する。
山森将智家の本名、出生地・出生時期
「山森将智家(やまもり まさちか)」は本人が生前に名乗っていた偽名であり、死後の調査により本名不詳の男性であることが判明しました(報道では氏名は明かされず、「男性」「夫」とだけ表現)。戸籍記録によれば、この男性は1927年8月生まれで、出生地は京都市左京区でした。死亡時の年齢は63歳であり、本人が自称していた「50歳」(1940年生まれ)より実際には十数歳も年上でした。なお、京都出身で大学医学部に入学した経歴は事実でしたが(戦後まもなく医学部に入学)、大学は卒業していません。つまり、生前に語っていたプロフィールのうち「京都生まれ」「医学部進学」など一部には真実も含まれていたものの、氏名・年齢を含む人格そのものは完全に架空のものでした。
経歴詐称の内容と動機
男性は自ら作り上げた「山森将智家」という架空の人物になりすまし、周囲に「京都生まれで心臓外科医(大学教員)」と経歴を偽っていました。具体的には、「昭和15年(1940年)京都市左京区で出生」「東京大学医学部を昭和40年卒業」「浜松医科大学附属病院の医師」といった輝かしい学歴・職歴を名乗り、それを裏付けるために次のような偽造書類まで用意していました。
- 戸籍抄本のコピー:1940年生まれで京都市左京区本籍と記載された戸籍抄本の写し(手書き様式)。
- 卒業証明書:1965年に東京大学医学部を卒業したことを示す証明書のコピー。
- 身分証明証:本人の顔写真が貼付された浜松医科大学職員証(医師として勤務しているよう偽装)。
しかし、調査の結果これらはいずれも実在しない架空の記録であることが判明しています。戸籍抄本に記載された氏名・本籍地に該当する人物や親族は存在せず、東京大学医学部の卒業者名簿にも一致する者はいませんでした。浜松医科大学にも同名の職員記録はなく、身分証も偽物でした。このように氏名・年齢・学歴・職業に至るまで全てを偽装した人生を演じていたのです。
経歴詐称の動機について確定的なことは分かっていません。本人は亡くなる直前まで正体を明かさず、内縁の妻A子(53歳)も「なぜ彼が自分を消そうとしたのか、それもわからない」と述べています。報道でも「なぜ、自分を消そうとしたのか、それもわからない」と動機の不明さを伝えています。ただし後に判明した事実から、いくつか動機の推察がなされています。
一つは経済的・職業的な行き詰まりです。男性は本来、東京で電気設備会社に勤務したのち独立しましたが、1972年前後に受注不振で会社経営が行き詰まり、出張先で突然消息を絶って失踪しています。このことから、事業の失敗や債務などから逃れるために過去を捨て、新たな人格「山森将智家」を作り出した可能性があります。実際、男性は家族(両親・兄弟)とも絶縁状態で、失踪以前から周囲との繋がりを断っていたと報じられており、自らの社会的痕跡を消す意図がうかがえます。
もう一つは家庭・人間関係のリセットです。後述するように男性には最初の妻B子がいましたが、家庭を捨ててまで別人として生き始めた背景には、本人にしか分からない心理的事情や人間関係上の問題があった可能性も指摘されています。報道では動機を断定していませんが、「金銭面だけではないかもしれない」とし、医学部中退後に畑違いの仕事に就いたことや長期間偽名を使い続けたことから、時代背景も含め様々な推測が語られています。いずれにせよ本人が真相を語らぬまま死亡しており、詐称の真の目的は今も不明です。
2人の妻の存在と二重生活の詳細
本件では2人の「妻」の存在が確認されました。一人は戸籍上の正式な妻B子、もう一人は偽名で暮らしていた相手の内縁の妻A子です。それぞれとの生活を時系列で整理します。
- B子との結婚(最初の妻): 男性は1967年11月に神奈川県在住の女性B子(当時50歳※1991年時点での年齢)と結婚し、正式に婚姻届を提出していました。結婚当時、男性は東京の電気設備会社に勤務しており、B子と知り合ったのもその勤務先ででした。結婚後、本籍地を神奈川県内に定めて新生活を始めています。しかし結婚から約5年後(1972年前後), 男性は勤め先を退職して自ら電気設備関係の会社を東京で起こしたものの業績不振に陥り、営業で地方出張中に突然B子との連絡が途絶えました。つまり1972年頃に男性は妻B子のもとから失踪し、その後消息不明になったのです。B子は夫の帰りを待ち続け、離婚届も提出せず、失踪宣告(法律上の死亡認定)も行わないまま約20年間にわたり行方を捜し続けていたことが報じられています。当時31歳だったB子は、生死も分からない夫を約20年もの長期間待ち続けることになりました。
- A子との出会いと内縁関係(第二の「妻」): 男性が新たな名前「山森将智家」としてA子と出会ったのは1986年末のことでした。A子(当時53歳)はちょうど離婚訴訟中で悩みを抱えており、知り合った男性に離婚問題の相談に乗ってもらうようになったといいます。男性は自称医師という肩書きもあってか博識で、A子の良き助言者となったようです。その後二人は急速に親しくなり、翌1987年夏には東京都世田谷区内のアパートで同居を開始しました(月額家賃7万円の物件)。A子は前夫との離婚慰謝料を受け取っており、その慰謝料が同居後の生活費に充てられたと報じられています。同居生活は5年間に及び、A子にとって男性は事実上の内縁の夫でした。
男性はA子との生活においても自ら作り上げた虚偽の経歴を一貫して通しました。両親は既に亡く、身寄りは祖母だけでその祖母も他界して今は天涯孤独であると語り、自身の「過去」について雄弁に語ったといいます。職業については「心臓外科医で、週末だけ研究室で実験をしている」と説明し、実際毎週土曜日になると「浜松へ行く」と言って家を出て、月曜まで帰らない生活を続けました。A子は夫が医師で多忙なのだと信じ、生活費を支えつつ彼を献身的に看病・支援していたと見られます。しかし現実には、浜松医科大学にそのような人物はおらず、週末に家を空けていた男性がどこで何をしていたのかは不明です(少なくとも医師としての勤務実態は皆無でした)。この期間、男性は戸籍上まだB子と婚姻関係にあるにもかかわらず、事実上はA子との生活に身を置いていた(二重生活)ことになります。
ここで注意すべきは、「二重生活」といっても同時期に二つの家庭を行き来していたわけではなく、男性は1970年代前半以降B子のもとを完全に離れた後、別人としてA子と暮らし始めたという点です。B子とは法的に婚姻関係が継続していましたが、実態としては約15年間にわたり行方不明で、男性がA子と出会った時点では既に新しい人生を演じていたことになります。従って「同時に二人の妻と暮らしていた」というよりは、「前半生を共にした妻を捨てて失踪し、後半生で別人となって別の女性と暮らした」という連続した二重生活と言えるでしょう。その意味では法的には重婚(法律上の二重婚)状態でしたが、男性はA子とは入籍しなかったため法律上の重婚罪は問われずに済んでいます(もっとも彼が生存中に発覚していれば、公文書偽造や詐欺罪など複数の罪に問われ得る状況でした)。
1991年の死去時の状況と死因
1991年5月19日、男性は東京都世田谷区内の病院で死亡しました。死因は癌(末期ガン)で、発見時には全身に転移が広がった状態だったと報じられています。死亡当時の年齢は自称では50歳でしたが、実際には前述の通り63歳でした。
男性の体調悪化は1990年頃から顕著になりました。1990年秋頃からはほとんど寝たきりの状態となり、A子が介護をしていました。しかし男性は病状が進行しても頑なに病院に行くことを拒み続けていました。当初A子はその理由が分からず困惑しましたが、実は偽名で生活していたため健康保険証を持っておらず、病院にかかると身元が露見することを恐れていたとみられます。この頃からA子も夫の言動に不審を抱きはじめ、わずかに疑念を持ち始めていたようです。
1991年5月初め、寝たきりのはずの夫が突然家を空ける出来事がありました。容体が深刻な中での予想外の外出にA子は驚き、急いで浜松医科大学まで夫を追いかけましたが、当然ながら大学に該当人物は在籍しておらず、ここで夫の勤務先や経歴が全て嘘であることが決定的となります。帰宅後、A子は「あなたは一体誰なんですか」と夫を激しく問い詰めました。追及された男性は、自らの過去について結局何も明かさぬまま、間もなく容体が急変します。
1991年5月中旬、救急車で病院に搬送された男性は、そのまま入院先の病院で息を引き取りました。亡くなる直前、A子に対し彼は「死ぬしかなかった。本当は生きていたかったんだ」と言い残したと伝えられています。これが彼の最期の言葉でした。この発言には、自分の正体を明かせないまま死を迎える無念さや、本当の人生を取り戻したいという後悔がにじんでおり、A子は大きな衝撃を受けたと想像されます。
死亡時、身元不明の遺体となった男性ですが、役所の判断でひとまず自称していた「山森将智家」として死亡届が受理され、火葬・納骨が行われました。世田谷区役所は内縁の妻A子から事情を聴取した上で、「山森将智家」という名義での埋葬を許可し、遺骨はA子の手で納骨されています。つまり、公的には存在しない架空の人物「山森将智家」が死亡した扱いになってしまったのです(後述の通り、後に真の身元が判明したことで本来の戸籍にも死亡が反映されることになります)。
死後に偽造が明らかになった経緯
男性の死後、その正体が不明であることが本格的に問題となりました。A子は夫の死亡手続きを進める中で、決定的な事実に直面します。死亡届を提出しようと区役所に赴いた際、夫が生前に渡してくれていた戸籍抄本(「山森将智家」名義)のコピーを提出したところ、その戸籍抄本は偽造であり、該当する戸籍自体が存在しないことが判明したのです。戸籍上、「山森将智家」という人物もその親族もどこにも記録が無く、持参した身分証明書類もすべて偽物だと判明しました。この時点でA子は、夫だと信じていた人物が戸籍から経歴まですべて虚構だったという現実を突きつけられることになります。
実はA子は、夫の生前からいくつかの不審な兆候に気付き始めていました。前述したように、夫が病院嫌いで保険証も持たないこと、そして死の直前に勝手に外出した際には浜松医大に彼の勤務実態が無い(架空の肩書)ことが判明しています。この時点でA子は夫を問い質し、「あなたは誰なのか」と詰問しましたが、夫は明確な答えを残さないまま亡くなってしまいました。残されたのは偽名の戸籍コピーや偽造証明書類の数々、そして謎だらけの過去でした。
夫の死後、A子は警察にも相談して夫の身元調査を試みます。また、夫の遺品(偽造書類のほか、ドイツ語で書き込みのある医学書や簡易な医療器具の入った鞄、軍服姿の両親の写真、700枚に及ぶ未完の小説原稿など)を手掛かりに、自力でも各所を半年ほど訪ね歩き情報収集を行いました。A子は「決して彼に騙されたとは思わない。でも、二人で過ごした5年間のためにも、突き止めたいのです」と述べ、夫が一体何者だったのかを知ることだけが彼女の望みでした。しかし警察から提供された情報もなく、独自調査でも糸口が掴めないまま時間が過ぎていきました。
行き詰まったA子は、メディアの力を借りて広く情報提供を募ることを決意します。当時はインターネットやSNSもない時代で、一般人が頼れる手段は新聞やテレビの報道でした。幸いなことに、この特異な話に着目した報道機関があり、夫の死から約半年後に新聞紙上で大きく取り上げられることになります。そのきっかけとなったのが、次項で述べる朝日新聞の記事「夫はだれだった」でした。
報道内容(新聞記事の概要と反響)
1991年11月4日付の朝日新聞(東京本社版)朝刊社会面に、A子の体験を綴った衝撃的な記事が掲載されました。見出しは大きく「夫はだれだった」とあり、副題には「5月病死、戸籍も勤務先も『ウソ』」と添えられています。この記事(社会面コラム)はノンフィクション作家の辻仁成氏が執筆したエッセイ風のルポルタージュで、内容は以下の通りです。
- 記事前半: 今年5月に都内の病院で病死した中年男性と5年間連れ添った女性A子(53歳)が、「夫は本当は誰だったのか」を今も探し続けているという導入で始まります。夫は「山森将智家、京都生まれで職業は医師」と自称し、死亡時の年齢は自称の生年月日から50歳とされた。しかし死亡届を出そうとしたところ、本籍地(京都)には「山森将智家」という名前の人物も親族も見当たらず、所持していた身分証明書類や戸籍抄本のコピーはいずれも偽物と分かった──調べれば調べるほど、「山森将智家」の過去は霧の中に消える、と状況を説明しています。「なぜ自分を消そうとしたのか、それもわからない」と、A子には夫の動機も見当が付かない旨が記されています。
- 偽装の詳細: 記事中盤では、男性が死亡した5月19日の経緯(末期ガンで亡くなり、内縁の妻A子の申告で一旦「山森将智家」として埋葬許可が下りたこと)に触れつつ、残された多くの遺品について列挙しています。例えば、(1)「昭和15年京都市左京区で出生」と書かれた戸籍抄本コピー、(2)昭和40年東大医学部卒業証明書のコピー、(3)顔写真付きの浜松医科大学職員証明書、(4)ドイツ語の書き込みがある医学書やノート、簡易な診療器具の入ったカバン、(5)男性によく似た軍服姿の父母の写真、(6)原稿用紙700枚に及ぶ書きかけの小説──といった具合です。そして(1)~(3)の公的書類はいずれも該当者が存在しない偽造だったこと、A子と男性の出会いから同居に至る経緯(1986年暮れに知り合い翌年夏から同居、A子の離婚慰謝料を生活費に充当)や、男性が語っていた過去(両親を亡くし身寄りが無い、心臓外科医で週末は研究のため留守にする 等)について詳述されました。病状が悪化しても医者に診せることを拒んだ不審な様子や、A子が勤務先に問い合わせたところ夫の存在自体が無かったこと、問い詰められた夫が死に際に意味深な言葉を残したことなど、前述した出来事が克明に綴られています。記事の結びは「正体不明のまま謎だけを残して亡くなった」「5年間一緒に暮らした相手は誰だったのか…あまりにも非常で切ない話」といった余韻を持たせる内容で、読者に大きな衝撃と同情、そして興味を抱かせるものでした。
この「夫はだれだった」記事は社会に大きな反響を呼び、読者から新聞社に様々な情報提供や問い合わせが寄せられました。A子にとってもわずかながら希望の光が差し込みます。そして記事掲載から半月後、ついに決定的な手掛かりがもたらされました。
1991年11月20日付の朝日新聞に、今度は追跡取材記事として「捜し続けるもう一人の妻がいた 『夫はだれ』その『医師・山森』」との見出しの記事が掲載されます。これは11月4日の記事反響で集まった情報を元に新事実を報じたもので、内容を要約すると以下の通りです。
- 「もう一人の妻」の存在判明: 11月4日付記事掲載後、寄せられた情報から神奈川県在住のB子(当時50歳)の存在が浮上しました。取材の結果、「今年5月にガンで死んだ『医師・山森』と名乗っていた男性」は、24年前(1967年)にB子と結婚した電気設備業の男性であることが関係者の証言などで判明したと伝えています。B子は夫が失踪した後も約20年にわたり捜し続けていた人物で、まさに「もう一人の妻」が存在していたことになります。
- 男性の正体と空白の15年: 記事では男性の本当の経歴についても触れられています。それによれば、男性は1927年生まれ(昭和2年8月生まれ)で、死亡時は63歳だったことがB子の証言で確認されました。京都市生まれで医学部に入学したという点は自称と一致するものの、大学は卒業していなかったこと、そしてA子に名乗っていた「山森将智家」という名前は偽名であったことも明言されています。興味深いことに、この偽名「山森将智家」は男性が失踪前(1970年代)に仕事上で使ったことがあった名前だと記事中では述べられています。男性は東京の電気設備会社勤務時代にB子と知り合い、1967年11月に結婚して神奈川県内に本籍を置きました。しかし両親や兄弟とは絶縁状態で、結婚後も実家との行き来は無く、B子に見せていた「父親の写真」(男性がA子に遺品として残していた軍服姿の写真と同じもの)がB子の手元にもあったといいます。男性は1972年頃に勤務先を退職して東京で電気設備会社を起業しましたが、受注が上手くいかず、地方への営業出張中に突然連絡が途絶え失踪しました。B子は先述の通り離婚も失踪宣告もせずに夫を探し続けてきました。一方、男性は1986年末にA子と出会い、世田谷区内のアパートで暮らし始めたこと、週末になると「浜松へ行く」と家を空ける生活をしていたこと、そして1990年秋頃から体調を崩し1991年5月に亡くなった経緯までが再度まとめられています。亡くなる間際に彼がA子に残した言葉「『死ぬしかなかった。本当は生きていたかったんだ』」についても言及され、長年消息不明だった男性が別人として他界していたという真実に、B子がどれほど衝撃を受けただろうか、と記事は締めくくられています。
この11月20日付記事により、男性の出生から失踪、二重生活に至る大まかな全貌が判明しました。戸籍上の本名こそ報道では伏せられましたが、「山森将智家」の正体が1972年頃に神奈川で失踪した63歳の男性であったことが確定したのです。なお、この一連の報道は当時大きな話題となり、テレビのニュース番組(例:テレビ朝日「ニュースステーション」)でも取り上げられるなど社会的関心を集めました。また後年になって、この事件をヒントにした小説『嘘を愛する女』(岡部えつ著、2017年)や同名の映画(2018年公開)も制作されており、フィクションの題材としても影響を与えています。
社会的・法的影響(詐欺・戸籍制度等の問題点と反響)
社会的影響: 「山森将智家」という架空人物による二重生活の発覚は、日本社会に様々な波紋を広げました。まず何より、人々に身近な人間の「身元」というものへの不信感や不安を抱かせる衝撃的な事件として受け止められました。5年間も連れ添った配偶者が全くの別人だったという事実は、「信じられない」「現実にこんなことがあるのか」と大きく報じられ、読者・視聴者に強い印象を残しました。A子の「5年間一緒に暮らした相手が誰だかわからなくなった」という切実な訴えは、多くの人々に他人事ではない怖さを感じさせ、アイデンティティの証明や個人情報管理の重要性について考えさせる契機ともなりました。
また、本件はマスメディア報道の持つ力も示しました。A子が夫の正体を突き止めることができたのは、新聞記事を通じて情報提供を募ったおかげでした。インターネットの無い時代、新聞報道により20年音信不通だった別居中の妻(B子)にまで情報が届き、結果的に行方不明事件の真相解明につながったことは、メディアによる社会的支援の好例として語られています。読者の中には「自分の家族を思い出した」「戸籍をもう一度確認した」という声もあったと伝えられ、家族・戸籍の絆について考える社会的なきっかけにもなりました。
法的影響・制度的課題: この事件は、日本の戸籍制度や身分証明の在り方についても問題提起を行いました。当時、戸籍抄本は手書きの書類で発行されるケースが多く、偽造防止の仕組みも現在ほど厳格ではありませんでした。男性は自作の偽戸籍抄本をわざとコピーして紙質や印字の粗さをごまかすなどし、A子に提示して信じ込ませていました。これは戸籍制度の盲点を突いた行為であり、公的書類でありながらコピーであれば容易に偽装できてしまう当時の状況が浮き彫りとなりました。幸い男性は偽造戸籍で公的サービス(パスポート取得等)を受けることはしていなかったようですが、一歩間違えば公的手続きに偽戸籍が使われ社会に混乱を招く恐れもあったわけです。
本件では犯人(男性)が死亡していたため刑事訴追は行われませんでしたが、もし存命であれば公文書偽造罪(戸籍抄本や身分証明書の偽造)や私文書偽造罪、さらにはA子に対する生活費詐取などが認められれば詐欺罪にも問われ得る事案でした。実際、1990年代半ばには類似の戸籍・身分詐称事件がいくつも摘発されています。例えば、他人の戸籍を買い取って25年間も別人名義で生活していた男性が1995年に逮捕される事件や、妻と共謀して他人夫婦の戸籍を入手し11年間にわたり逃亡生活を続けた詐欺犯が摘発される事件、さらには在日韓国人の男性が死亡した日本人の戸籍を利用して20年以上も市役所職員として勤めていた事案(1995年発覚)など、戸籍や他人名義を悪用した成りすまし犯罪が相次いで明るみに出ました。 これらはいずれも本件同様に「他人になりすまして人生を送る」という信じ難い内容であり、社会に少なからぬ衝撃を与えています。
こうした事態を受け、行政当局も身分証明の厳格化に乗り出しました。本件発生から数年後の1994年(平成6年)には戸籍法が改正され、戸籍簿の電算化(コンピュータ管理)が進められます。これにより戸籍謄・抄本の発行様式が統一され偽造困難となったほか、役所間での戸籍情報照会も迅速化され、虚偽の戸籍や二重戸籍の作成は飛躍的に難しくなりました。また住民基本台帳ネットワークの導入や公的個人認証制度の整備など、1990年代末から2000年代にかけて本人確認の制度が強化されていきます。結果として、少なくとも戸籍や公的書類を用いた大掛かりな成りすまし生活は、現代では当時より発覚しやすくなっていると言えます。
法的側面では、家族関係の整理という問題もありました。B子は法律上20年以上婚姻関係が継続していたため、夫の生死不明の間は再婚もできず法的にも宙ぶらりんの状態でしたが、今回夫の死亡(しかも別人としての死亡)が確認されたことでようやく戸籍上も死亡届を提出し婚姻関係を解消できる状況になりました(報道ではその手続き自体について詳しく触れていませんが、少なくとも夫の死亡事実を知ることでB子は法的な区切りを付けることが可能となりました)。一方A子については、内縁関係であったため法的な婚姻関係は元々無く、戸籍上は何の記録も残らないまま「配偶者」を失う形となりました。A子は葬儀や埋葬を執り行ったものの、死亡診断書や役所の記録上は「妻」として扱われない立場であり、改めて法律婚と内縁の差を感じさせられる結果ともなりました。この点についてA子本人は公に語っていませんが、法の想定しない状況(偽装した身元での同居)ゆえの歪みが浮き彫りになったと言えるでしょう。
最後に、本件は社会に対して「身近な人間の信用と身元確認」の教訓を残しました。事件後、「もし自分のパートナーが別人だったら…」と不安を漏らす声や、結婚相手の身元調査を求める風潮も一部で高まったといいます。しかし一方で、A子が「彼に騙されたとは思わない」と語ったように、たとえ経歴が嘘でも共に過ごした時間の価値は本物だったという見方もあります。報道ではA子の複雑な心境にも触れられ、単なる犯罪・事件としてだけでなく人間ドラマとしての側面が強調されました。このため本件は今なお語り継がれ、戸籍制度の教訓であると同時に、フィクションの題材(先述の映画など)にもなって人々の記憶に残っています。
以上のように、「山森将智家」事件は一人の男性の特異な二重生活の発覚劇でしたが、その背景には当時の社会制度の隙や、家族・戸籍にまつわる法的課題が横たわっていました。報道によって事実が解明されたことで、残された二人の「妻」はようやくそれぞれの人生を取り戻すことができましたが、その衝撃的な教訓は日本社会における身元確認の重要性と、戸籍制度の在り方について深い問いを投げかけたのです。
Sources:
- 朝日新聞東京本社版「夫はだれだった 5月病死、戸籍も勤務先も『ウソ』」(1991年11月4日付)
- 朝日新聞東京本社版「捜し続けるもう一人の妻がいた『夫はだれ』その『医師・山森』」(1991年11月20日付)
- NEWSポストセブン (女性セブン2018年2月22日号) 「長澤まさみ&高橋一生の映画『嘘を愛する女』ベースとなった怖い実話」
- Clairvoyant-Report事件分析「夫はだれだった:『山森将智家』と二人の妻『嘘を愛する女』の実話」(2023年)
- Dolly9映画解説「映画『嘘を愛する女』実際の出来事を紹介!事実は映画よりも悲惨!!」(2022年)

