交通事故や刃物によるけがで、指先や手の神経が切れてしまうと、しびれや痛みが残り、物をつかむ、細かい作業をするといった当たり前の動作が難しくなります。こうした「末梢神経損傷」は、日常生活の質を大きく下げる深刻な外傷の一つです。
この課題に対し、京都大学医学部附属病院を中心とする研究チームが、へその緒(臍帯)由来の細胞を使い、バイオ3Dプリンターで作製した三次元神経導管を患者に移植する医師主導の臨床試験を、2026年1月から開始すると発表しました。
今回の試みは、従来治療の限界を乗り越え、より多くの患者に神経再生の道を開く可能性を秘めた、再生医療の新しいステップと位置づけられています。
末梢神経損傷とは何か
なぜ治療が難しいのか
末梢神経とは、脳や脊髄から枝分かれし、手足の先まで伸びている神経のことです。触覚や痛み、温度といった感覚、そして指や腕を動かす命令を伝える役割を担っています。
この末梢神経が事故や切り傷で断裂すると、神経信号が途中で途切れてしまいます。神経は自然に少しずつ再生する性質を持ちますが、欠損が大きい場合や断裂部が離れている場合、再生の道筋が失われ、回復が難しくなります。
例えるなら、切断された電線が宙に浮いた状態です。電線同士を正しく導き、保護し、つなぐ仕組みがなければ、電気は流れません。神経も同じで、再生を助ける「道」が必要になります。
従来の標準治療
自家神経移植が抱える根本的な課題
現在、末梢神経損傷の標準治療とされてきたのが「自家神経移植」です。これは、患者自身の健康な神経を別の部位から採取し、損傷部に移植する方法です。
しかし、この治療法には大きな課題があります。
まず、神経を採取した部位に新たな痛みやしびれが生じる可能性があります。治すために、別の場所に犠牲を強いる構造になっているのです。
さらに、欠損が長い場合や太い神経が損傷した場合、移植に必要な神経を十分に確保できず、治療そのものが困難になることもあります。その結果、患者が回復を諦めざるを得ないケースも存在していました。
神経導管という発想
神経を「導く道」を作る治療
こうした課題を背景に開発されてきたのが「神経導管」です。神経導管とは、切れた神経同士の間に設置する筒状の構造物で、神経が伸びていくための通り道を提供します。
工事中の道路に仮設のトンネルを作るようなイメージです。周囲に邪魔されず、正しい方向に伸びられる環境を整えることで、神経再生を助けます。
ただし、従来の人工神経導管は、細胞成分が乏しく、神経再生を促すための環境が十分とは言えない点が課題とされてきました。
京大チームのこれまでの成果
自家細胞を使ったバイオ3Dプリンター治療
京都大学の研究チームは、すでに患者自身の皮膚細胞を使い、バイオ3Dプリンターで三次元神経導管を作製し、臨床試験を実施してきました。
その結果、移植後に感覚神経の回復が確認され、副作用や重大な合併症も報告されていませんでした。治療効果という点では、非常に有望な成果が得られていたのです。
一方で、この方法には時間的な制約がありました。患者の細胞を採取し、培養し、神経導管を作るまでに、一定の期間が必要となり、早期治療の妨げになる可能性がありました。
新たな選択肢
へその緒由来の間葉系細胞とは
今回の臨床試験で用いられるのが、へその緒(臍帯)由来の間葉系細胞です。臍帯は出産時に得られる組織で、本来は医療廃棄物として扱われてきましたが、近年は再生医療の貴重な資源として注目されています。
間葉系細胞は、体の修復に関わる性質を持ち、さまざまな生理活性物質を分泌することで、周囲の組織の回復を助ける働きがあるとされています。
また、臍帯由来細胞は免疫反応を起こしにくい可能性があることが、研究の積み重ねから示唆されています。この特性が、他人由来の細胞を使う「同種移植」を可能にする鍵になります。
同種移植という挑戦
免疫抑制剤を使わない治療を目指す
他人由来の細胞を体に移植すると、通常は免疫が異物と判断し、排除しようとします。そのため、臓器移植などでは免疫抑制剤が必要になります。
今回の治療は、臍帯由来間葉系細胞の特性を生かし、免疫抑制剤を使わずに神経導管を移植できる可能性を検証する点が大きな特徴です。
もし安全性と有効性が確認されれば、患者の負担を大きく減らす治療法となる可能性があります。
バイオ3Dプリンター技術
細胞を積み上げて組織を作る仕組み
バイオ3Dプリンターは、プラスチックや金属ではなく、細胞そのものを材料として立体構造を作る技術です。
細胞を球状の小さな塊にし、それを精密に配置して積み上げていくことで、細胞同士が自然に融合し、立体的な組織が形成されます。人工的な足場材料を使わず、細胞の力で構造を保つ点が特徴です。
この技術により、神経再生に必要な細胞環境を豊富に含んだ三次元神経導管の作製が可能になります。
臨床試験の流れ
製造から移植、観察まで
今回の治験では、次のような流れで治療が行われます。
まず患者から治験への同意を取得します。
次に、臍帯由来間葉系細胞を用いて三次元神経導管を製造します。
製造された神経導管は京都大学医学部附属病院に搬送され、神経損傷部に移植されます。
移植後は約9か月間にわたり、安全性と有効性が慎重に観察されます。
初期段階では、3名の患者を対象に実施される予定です。
対象となる患者像
対象は、外傷によって手首より先の末梢神経が断裂または欠損した患者で、受傷から6か月以内に登録可能な成人です。従来の人工神経移植や自家神経移植を希望しない患者が対象となります。
参加には紹介や審査が必要となり、誰でもすぐに受けられる治療ではありませんが、将来の治療選択肢を広げる重要な一歩となります。
今後の展望
実用化と再生医療の広がり
研究チームは、今回の臨床試験を通じて安全性と有効性を確認し、将来的には国の承認を経て実用化を目指しています。この研究は公的研究支援のもとで進められており、社会実装を見据えた取り組みです。
もし実用化されれば、自家神経を採取する必要がなくなり、治療できる範囲が大きく広がる可能性があります。末梢神経損傷だけでなく、再生医療全体に新たな道を示す成果となるかもしれません。
まとめ
神経再生治療は次の段階へ
京都大学などのチームが開始する今回の臨床試験は、へその緒由来の細胞とバイオ3Dプリンターを組み合わせた、世界的にも注目される再生医療の挑戦です。
切れた神経に新しい道を作り、再び信号を通す。このシンプルでありながら難しい課題に対し、医療技術は確実に前進しています。2026年から始まる臨床試験は、その成果を現実の医療に近づける重要な節目となるでしょう。
ソース
京都大学医学部附属病院 発表資料
京都大学 研究ニュース
東京大学医科学研究所附属病院 臍帯血・臍帯バンク 公開情報
再生医療関連の学術論文および専門家コメント

